中央イタリアで名の知れた都市といえば、まずはローマが挙げられるでしょう。イタリアの首都であり、世界的にも圧倒的な知名度を誇っています。他にも、フィレンツェやピサといった歴史的にも大きな意味を持った都市が存在しており、まさにイタリアの中心といった様相です。それでは中央イタリアの世界遺産に先だって、これら主要都市に関するお話をご紹介します。
◎ローマにまつわるエピソード
〜ローマ帝国の
◎ローマにまつわるエピソード
〜ローマ帝国の
中央イタリアで名の知れた都市といえば、まずはローマが挙げられるでしょう。イタリアの首都であり、世界的にも圧倒的な知名度を誇っています。他にも、フィレンツェやピサといった歴史的にも大きな意味を持った都市が存在しており、まさにイタリアの中心といった様相です。それでは中央イタリアの世界遺産に先だって、これら主要都市に関するお話をご紹介します。
◎ローマにまつわるエピソード
〜ローマ帝国の盛衰
ローマ帝国の原型となったのは、ラテン人による都市国家としてのローマでした。領土は街1つだけで、エトルリア人という異民族の王によって支配される極めて弱小な小規模国家に過ぎなかったのです。
しかし、徐々に力をつけたローマはエトルリア人の王を追放し、貴族による共和政へと移行しました。独裁を防ぐためにトップには2名の執政官(コンスル)を置き、60名から成る元老院と相談しながら政治を行う体制を敷くことで、古代国家としては非常に優れた統治システムを完成させたのです。
力をつけた都市国家ローマは重装歩兵部隊を擁し、イタリア半島の諸都市を統一していきます。しかし、その過程では「戦争に参加することで国益のために働いているのだから参政権を与えられて然るべき」と主張するようになった平民(プレブス)による貴族(パトリキ)たちへの反発が生まれ、ローマが大きく揺れる時期もありました。貴族は少しずつとはいえ平民に譲歩せざるを得なくなっていき、ローマの政治システムはさらに整備されていったのでした。平民の権利を保護する役職として護民官を設置、身分に関係なく参照できる法体系を確立するために慣習法を明文化した十二表法の整備、さらには「2名の執政官(コンスル)のうち1名を平民階級から選出することを定め、同時に貴族階級による土地の独占を防止するために1人あたりの土地所有面積を500ユゲラまでに制限すること」を取り決めたリキニウス=セクスティウス法の施行、と平民階級の権利が次々に伸張していきました。この平民と貴族を平等化する動きは、B.C.287年に「平民会の決定した法律が、元老院の承認を経なくてもそのまま国法となる」ことを定めたホルテンシウス法の制定をもってひとまず完成し、身分闘争は収束へと向かいました。
内政が整備されていくのと同時期、ローマの外征も順調に進行しています。この頃のローマは既に小規模な都市国家などではなく、共和政ローマと呼称される領域国家に成長していました。イタリア半島の諸都市を次々と制圧し、最後にイタリア半島最南端のギリシア植民市:タレントゥムを陥落させたことで、ついにローマはイタリア半島統一を成し遂げたのです。
イタリアを統一したローマの次なる狙いは、地中海を越えた先の北アフリカへと向かいます。当時の北アフリカ(現在のチュニジア)にはカルタゴと呼ばれる強大なフェニキア人国家が存在していたのです。ローマはここから3度にわたってカルタゴと争うことになり、この戦いはポエニ戦争と呼ばれています。(ちなみにポエニの由来は、フェニキア人のフェニキアはアルファベットでphoeniciaと綴られ、これをローマ読みすると「ポエニシア」と読めることから)第一次ポエニ戦争では、シチリア島を初の属州としてカルタゴから獲得。第二次ではカルタゴの将軍ハンニバルの象兵軍団に苦戦しながらも逆転勝利を収めてカルタゴを屈服させます。そして第三次ではカルタゴを完全に焼き払い、国家そのものをこの世から消し去りました。
こうして強大な力を持った共和政ローマは次々と領土を拡大していきます。しかし、この頃になると有能な軍人が政治的発言力を強めるようになり、ローマの政治体制に大きな変化が現れ始めます。ここでローマの指導者的な立場へと躍り出たのが、数々の戦争で特に大きな戦果を挙げた3人の軍人でした。ガリア地方への遠征で活躍したユリウス=カエサル(ジュリアス=シーザー)、オリエント遠征を成功させたポンペイウス、そしてスパルタクスの反乱を平定したクラッススです。ローマは徐々に、彼ら3名による共同統治へと変化していき、これを第1回三頭政治と呼んでいます。後にクラッススがパルティア遠征で戦死すると、カエサルとポンペイウスがローマ指導者の座をめぐって争います。ポンペイウスは、カエサルが戦地に趣いている間に元老院を味方につけて、カエサルが戻り次第すぐに殺害する準備を整えます。ローマのための戦いを終えたカエサルは、そのローマに牙をむかれたことに気付くと「賽は投げられた」という有名な言葉を呟いて、ポンペイウス及び元老院派との内戦に向かったことが広く知られています。結果、カエサルはポンペイウスを打倒し、終身独裁官(ディクタトル)に就任。
これでカエサルが名実ともにローマのトップに立ったかに見えました。しかし、伝統的に共和政を続けてきたローマでは独裁者・国王といった存在に対する根強い反感があったのです。カエサルは間もなく、共和派の政治家ブルートゥスらによって暗殺されてしまいます。
しかし、内乱が続くこの時代のローマでは、やはり軍人が政治的権力を握るのを止める術はありません。今度はカエサルの養子であるオクタヴィアヌス、カエサルの部下アントニウス、カエサル派の将軍レピドゥスによる第2回三頭政治が開始されました。そして、最終的にはオクタヴィアヌスとアントニウスの2人によって、ローマのトップをめぐる争いが起きたのです。
アントニウスは、カエサルとも懇意だったエジプトの女王クレオパトラ7世と同盟を結んで、最大勢力のオクタヴィアヌスと戦いました。しかし、アクティウムの海戦ではオクタヴィアヌスが勝利。オクタヴィアヌスが100年続いた“内乱の一世紀”を制しました。
オクタヴィアヌスは養父カエサルの轍を踏まぬように元老院との相互協力を打ち出しつつ、可能な範囲で自身の権力を固めました。こうした努力が実を結び、元老院から「プリンケプス(第1の市民)」や「アウグストゥス(尊厳者)」といった称号を受け、名目上は共和政の代表者としながら実質的な帝位につくことに成功したのでした。この時代以降のローマを前期帝政・元首政(プリンキパトゥス)のローマ帝国と表現します。
この前期帝政における元首の地位は世襲ではなく、有能な者を養子として後継者に指名するというシステムでした。このため安定した時代が続き、五賢帝と呼ばれる5人の皇帝(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アルレリウス=アントニヌス)の治世にローマ帝国は最盛期を迎えます。この時代の「ローマ帝国の権威による平和」をパックス=ロマーナと呼んでいることは有名ですね。その後、疫病や異民族の侵入でややローマ帝国の国力が落ちる時代もありましたが、前期帝政が機能している間はおおむね繁栄していたと言っても差し支えないでしょう。また、カラカラ帝という皇帝の時代にはアントニヌス勅令という命令が出され、帝国全土の自由民にローマ市民権が与えられています。これによって、ローマ帝国内のどこで生まれたかによって扱いが変わってしまう「土地による差別」がなくなりました。
しかし、この良い時代にも終わりが訪れました。元首政には1つだけ大きな欠点があったのです。次期皇帝を決定する権限は現皇帝にあるのですが、特にハッキリした基準が明文化されているわけではないことです。このため、異民族との争いが続く時代になると軍人が発言力を強め、次期皇帝の選定に口を挟んだり、新皇帝の支持に従わなかったりする例が出てきたのでした。
こうなると、軍人の意向が皇帝の即位・退位に影響力を持つようになり、力をつけた軍人が強引に次期皇帝の座を約束させたりする例が横行します。場合によっては皇帝の暗殺までもが発生するようになったこの時代を、軍人皇帝時代と呼んでいます。この時代、わずか50年の間に26人もの皇帝が入れ替わりました。当然、ローマ帝国の国力は低下し、軍人皇帝の1人:ヴァレリアヌス帝などはササン朝ペルシアとの戦争で敵軍に捉えられて殺害されるといったことまで起こっています。
この混乱を収束させたのは、最後の軍人皇帝ディオクレティアヌス帝でした。直属の官僚を整備して政治に当たらせ、皇帝の権限を大幅に強めて軍人が政治に介入する余地をなくしました。さらに、ローマ帝国が広すぎるがゆえに統治しきれなくなっていることを悟ったディオクレティアヌス帝は帝国の行政単位を4分割し、東の正帝/副帝・西の正帝/副帝という4人の代表者で統治するシステムへと移行、自らは東の正帝となりました。(あくまでも行政単位が分かれただけでローマ帝国自体は統一されていますし、帝国における権限を掌握する真の皇帝はディオクレティアヌス帝1人です)ディオクレティアヌス帝が東の正帝となったことで首都はローマからニコメディアに遷都され、この時代をもってローマはローマ帝国の中心地ではなくなりました。(当時、西側にはゲルマン人などの異民族が多く、東のほうが安定していたため)専制君主政に移行した、この時代以降のローマ帝国を後期帝政(ドミナートゥス)と表現します。
その後、キリスト教を公認したことで知られるコンスタンティヌス帝が、さらに首都をコンスタンティノープルへ遷都。帝国の中心はバルカン半島へと移行しました。帝国領内で流行していたキリスト教への迫害を止めて皇帝自らが公認したのは、キリスト教を利用して、衰退傾向のローマ帝国を再興しようという狙いがあったものと考えられています。しかし、そういった努力をもってしても、ローマ帝国は一時的な安寧を得るに留まりました。徐々に力を伸ばしているゲルマン人の進入など、多くの問題が顕在化しているローマ帝国の力は、もはやパックス=ロマーナの時代には到底及ばなかったのです。
その後、キリスト教を国教化したことで有名なテオドシウス帝は、とうとう帝国の統一状態を崩すことを決断しました。ローマ帝国を2つに分割し、2人の息子に分け与えたのです。長男のアルカディウスに東側、次男のホノリウスに西側を割り振りました。395年のことでした。これ以降、東西のローマ帝国は二度と政治的に統一されることはありませんでした。
その後、西ローマ帝国は急激に衰退。ゲルマン人の進入に悩み続け、イタリア半島さえ守りきることができなくなっていきます。最終的には476年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルによって時の皇帝が殺害され、東西分裂から僅か91年で滅亡したのでした。
対する東ローマ帝国は、後のユスティニアヌス1世治世下で最盛期を迎えるなど一時代を築きます。その後は徐々に国力は低下していきましたが、バルカン半島を中心に一定の力を維持し続け、ビザンツ帝国という別名でも広く知られています。イスラーム勢力の侵攻から西ヨーロッパ世界を果敢に守り続けた強国であり、1453年にオスマン帝国のメフメト2世に首都コンスタンティノープルを陥落させられるまでの1000年以上に渡って歴史上に存在し続けました。
以上、中央イタリアの中心都市ローマにまつわるお話でした。以降のページでは中央イタリアの世界遺産を実際に見ていきましょう。
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◎ローマにまつわるエピソード
〜ローマ帝国の盛衰
ローマ帝国の原型となったのは、ラテン人による都市国家としてのローマでした。領土は街1つだけで、エトルリア人という異民族の王によって支配される極めて弱小な小規模国家に過ぎなかったのです。
しかし、徐々に力をつけたローマはエトルリア人の王を追放し、貴族による共和政へと移行しました。独裁を防ぐためにトップには2名の執政官(コンスル)を置き、60名から成る元老院と相談しながら政治を行う体制を敷くことで、古代国家としては非常に優れた統治システムを完成させたのです。
力をつけた都市国家ローマは重装歩兵部隊を擁し、イタリア半島の諸都市を統一していきます。しかし、その過程では「戦争に参加することで国益のために働いているのだから参政権を与えられて然るべき」と主張するようになった平民(プレブス)による貴族(パトリキ)たちへの反発が生まれ、ローマが大きく揺れる時期もありました。貴族は少しずつとはいえ平民に譲歩せざるを得なくなっていき、ローマの政治システムはさらに整備されていったのでした。平民の権利を保護する役職として護民官を設置、身分に関係なく参照できる法体系を確立するために慣習法を明文化した十二表法の整備、さらには「2名の執政官(コンスル)のうち1名を平民階級から選出することを定め、同時に貴族階級による土地の独占を防止するために1人あたりの土地所有面積を500ユゲラまでに制限すること」を取り決めたリキニウス=セクスティウス法の施行、と平民階級の権利が次々に伸張していきました。この平民と貴族を平等化する動きは、B.C.287年に「平民会の決定した法律が、元老院の承認を経なくてもそのまま国法となる」ことを定めたホルテンシウス法の制定をもってひとまず完成し、身分闘争は収束へと向かいました。
内政が整備されていくのと同時期、ローマの外征も順調に進行しています。この頃のローマは既に小規模な都市国家などではなく、共和政ローマと呼称される領域国家に成長していました。イタリア半島の諸都市を次々と制圧し、最後にイタリア半島最南端のギリシア植民市:タレントゥムを陥落させたことで、ついにローマはイタリア半島統一を成し遂げたのです。
イタリアを統一したローマの次なる狙いは、地中海を越えた先の北アフリカへと向かいます。当時の北アフリカ(現在のチュニジア)にはカルタゴと呼ばれる強大なフェニキア人国家が存在していたのです。ローマはここから3度にわたってカルタゴと争うことになり、この戦いはポエニ戦争と呼ばれています。(ちなみにポエニの由来は、フェニキア人のフェニキアはアルファベットでphoeniciaと綴られ、これをローマ読みすると「ポエニシア」と読めることから)第一次ポエニ戦争では、シチリア島を初の属州としてカルタゴから獲得。第二次ではカルタゴの将軍ハンニバルの象兵軍団に苦戦しながらも逆転勝利を収めてカルタゴを屈服させます。そして第三次ではカルタゴを完全に焼き払い、国家そのものをこの世から消し去りました。
こうして強大な力を持った共和政ローマは次々と領土を拡大していきます。しかし、この頃になると有能な軍人が政治的発言力を強めるようになり、ローマの政治体制に大きな変化が現れ始めます。ここでローマの指導者的な立場へと躍り出たのが、数々の戦争で特に大きな戦果を挙げた3人の軍人でした。ガリア地方への遠征で活躍したユリウス=カエサル(ジュリアス=シーザー)、オリエント遠征を成功させたポンペイウス、そしてスパルタクスの反乱を平定したクラッススです。ローマは徐々に、彼ら3名による共同統治へと変化していき、これを第1回三頭政治と呼んでいます。後にクラッススがパルティア遠征で戦死すると、カエサルとポンペイウスがローマ指導者の座をめぐって争います。ポンペイウスは、カエサルが戦地に趣いている間に元老院を味方につけて、カエサルが戻り次第すぐに殺害する準備を整えます。ローマのための戦いを終えたカエサルは、そのローマに牙をむかれたことに気付くと「賽は投げられた」という有名な言葉を呟いて、ポンペイウス及び元老院派との内戦に向かったことが広く知られています。結果、カエサルはポンペイウスを打倒し、終身独裁官(ディクタトル)に就任。
これでカエサルが名実ともにローマのトップに立ったかに見えました。しかし、伝統的に共和政を続けてきたローマでは独裁者・国王といった存在に対する根強い反感があったのです。カエサルは間もなく、共和派の政治家ブルートゥスらによって暗殺されてしまいます。
しかし、内乱が続くこの時代のローマでは、やはり軍人が政治的権力を握るのを止める術はありません。今度はカエサルの養子であるオクタヴィアヌス、カエサルの部下アントニウス、カエサル派の将軍レピドゥスによる第2回三頭政治が開始されました。そして、最終的にはオクタヴィアヌスとアントニウスの2人によって、ローマのトップをめぐる争いが起きたのです。
アントニウスは、カエサルとも懇意だったエジプトの女王クレオパトラ7世と同盟を結んで、最大勢力のオクタヴィアヌスと戦いました。しかし、アクティウムの海戦ではオクタヴィアヌスが勝利。オクタヴィアヌスが100年続いた“内乱の一世紀”を制しました。
オクタヴィアヌスは養父カエサルの轍を踏まぬように元老院との相互協力を打ち出しつつ、可能な範囲で自身の権力を固めました。こうした努力が実を結び、元老院から「プリンケプス(第1の市民)」や「アウグストゥス(尊厳者)」といった称号を受け、名目上は共和政の代表者としながら実質的な帝位につくことに成功したのでした。この時代以降のローマを前期帝政・元首政(プリンキパトゥス)のローマ帝国と表現します。
この前期帝政における元首の地位は世襲ではなく、有能な者を養子として後継者に指名するというシステムでした。このため安定した時代が続き、五賢帝と呼ばれる5人の皇帝(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アルレリウス=アントニヌス)の治世にローマ帝国は最盛期を迎えます。この時代の「ローマ帝国の権威による平和」をパックス=ロマーナと呼んでいることは有名ですね。その後、疫病や異民族の侵入でややローマ帝国の国力が落ちる時代もありましたが、前期帝政が機能している間はおおむね繁栄していたと言っても差し支えないでしょう。また、カラカラ帝という皇帝の時代にはアントニヌス勅令という命令が出され、帝国全土の自由民にローマ市民権が与えられています。これによって、ローマ帝国内のどこで生まれたかによって扱いが変わってしまう「土地による差別」がなくなりました。
しかし、この良い時代にも終わりが訪れました。元首政には1つだけ大きな欠点があったのです。次期皇帝を決定する権限は現皇帝にあるのですが、特にハッキリした基準が明文化されているわけではないことです。このため、異民族との争いが続く時代になると軍人が発言力を強め、次期皇帝の選定に口を挟んだり、新皇帝の支持に従わなかったりする例が出てきたのでした。
こうなると、軍人の意向が皇帝の即位・退位に影響力を持つようになり、力をつけた軍人が強引に次期皇帝の座を約束させたりする例が横行します。場合によっては皇帝の暗殺までもが発生するようになったこの時代を、軍人皇帝時代と呼んでいます。この時代、わずか50年の間に26人もの皇帝が入れ替わりました。当然、ローマ帝国の国力は低下し、軍人皇帝の1人:ヴァレリアヌス帝などはササン朝ペルシアとの戦争で敵軍に捉えられて殺害されるといったことまで起こっています。
この混乱を収束させたのは、最後の軍人皇帝ディオクレティアヌス帝でした。直属の官僚を整備して政治に当たらせ、皇帝の権限を大幅に強めて軍人が政治に介入する余地をなくしました。さらに、ローマ帝国が広すぎるがゆえに統治しきれなくなっていることを悟ったディオクレティアヌス帝は帝国の行政単位を4分割し、東の正帝/副帝・西の正帝/副帝という4人の代表者で統治するシステムへと移行、自らは東の正帝となりました。(あくまでも行政単位が分かれただけでローマ帝国自体は統一されていますし、帝国における権限を掌握する真の皇帝はディオクレティアヌス帝1人です)ディオクレティアヌス帝が東の正帝となったことで首都はローマからニコメディアに遷都され、この時代をもってローマはローマ帝国の中心地ではなくなりました。(当時、西側にはゲルマン人などの異民族が多く、東のほうが安定していたため)専制君主政に移行した、この時代以降のローマ帝国を後期帝政(ドミナートゥス)と表現します。
その後、キリスト教を公認したことで知られるコンスタンティヌス帝が、さらに首都をコンスタンティノープルへ遷都。帝国の中心はバルカン半島へと移行しました。帝国領内で流行していたキリスト教への迫害を止めて皇帝自らが公認したのは、キリスト教を利用して、衰退傾向のローマ帝国を再興しようという狙いがあったものと考えられています。しかし、そういった努力をもってしても、ローマ帝国は一時的な安寧を得るに留まりました。徐々に力を伸ばしているゲルマン人の進入など、多くの問題が顕在化しているローマ帝国の力は、もはやパックス=ロマーナの時代には到底及ばなかったのです。
その後、キリスト教を国教化したことで有名なテオドシウス帝は、とうとう帝国の統一状態を崩すことを決断しました。ローマ帝国を2つに分割し、2人の息子に分け与えたのです。長男のアルカディウスに東側、次男のホノリウスに西側を割り振りました。395年のことでした。これ以降、東西のローマ帝国は二度と政治的に統一されることはありませんでした。
その後、西ローマ帝国は急激に衰退。ゲルマン人の進入に悩み続け、イタリア半島さえ守りきることができなくなっていきます。最終的には476年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルによって時の皇帝が殺害され、東西分裂から僅か91年で滅亡したのでした。
対する東ローマ帝国は、後のユスティニアヌス1世治世下で最盛期を迎えるなど一時代を築きます。その後は徐々に国力は低下していきましたが、バルカン半島を中心に一定の力を維持し続け、ビザンツ帝国という別名でも広く知られています。イスラーム勢力の侵攻から西ヨーロッパ世界を果敢に守り続けた強国であり、1453年にオスマン帝国のメフメト2世に首都コンスタンティノープルを陥落させられるまでの1000年以上に渡って歴史上に存在し続けました。
以上、中央イタリアの中心都市ローマにまつわるお話でした。以降のページでは中央イタリアの世界遺産を実際に見ていきましょう。
※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
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